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元東映プロデューサー田中憲吾の芸能界回顧録ブログ

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プロデューサー時代の俳優女優さんとの交流記録や

時代劇・ドラマの制作秘話など芸能界の裏話エピソードをつづったブログ

実は寂しがり屋の高倉健さん


今日は、高倉健さんとの思い出について書きたいと思います。

思えば、昭和の名優たちの多くがこの世を去られてしまい、

私の同輩たちも多くが引退しているため、この時代を知っているテレビマンはもうほとんどいなくなってしまったのではないでしょうか。

そういう意味でも私の記憶をできるだけ書き綴って、

昭和映画史・名優たちの記録のかけらを残しておきたいと思う次第です。

高倉健さんといえば、代表作としては、

「幸福の黄色いハンカチ(1977年)」「八甲田山(1977年)」「南極物語(1983年)」「鉄道員(1999年)」「あなたへ(2012年※遺作)」など数多くあります。






しかし、実は元々は東映所属の俳優さんでした。

私は確か、1960年代に「日本侠客伝」のときに撮影助手か宣伝部のスタッフとして初めてご一緒させて頂いて以来のお付き合いだったと思います。東映時代の代表作としては他に「網走番外地シリーズ」などがあります。



私にとって健さんの印象は、

「役作りにストイック」

「律儀で義理堅く」

「人前に出ることや、華やかな場・マスコミが苦手」

「お酒は飲まず大のコーヒー好き」

「野球音痴」

「寂しがり屋」

といったことです。

「役作りにストイック」「律儀で義理堅い」というのは世間でもよく知られている姿なのではないでしょうか。

萬屋さんと「宮本武蔵」で佐々木小次郎役で初めての時代劇共演された時に、殺陣(たて)が初めてだった健さんは、暇さえあれば萬屋さんのお宅に通って立ち回りを教えてもらい、そのお礼にと萬屋さんのお宅の雑巾掛けやプールの掃除をされていました。

萬屋さんより1つ年上であるにも関わらずのこの姿勢が健さんらしいです。

その萬屋さんのお母様の小川ひなさんの一周忌のときに、

私は受付係として早めに行って準備をしていたのですが、

会が始まる前に健さんが弔問来られ、

「憲ちゃんご苦労さん、よろしく頼むね」とおっしゃって帰って行かれました。

マスコミのインタビューが苦手な健さんは、

こういう時は始まる前に誰よりも先に来てご挨拶を済ませて帰って行かれるのでした。

また、健さんはお酒を飲まないと決めていらっしゃったので、

ビールのCMにはご出演されるときも、

口をつけるところまでで、飲むシーンはありませんでした。

その代わり大のコーヒー好きで、撮影で京都に来られた時は、

「憲ちゃん空いてる?」とよく電話がかかってきて、

コーヒーを飲みに7~8件お店をはしごしたものです。

なんと1日に20杯ほど飲まれていました!

「野球音痴」というのは、

健さんとソフトボールをしたときのことです。

健さんは、ピンチヒッターで出場して打った時、

なんと一塁ではなく三塁に向かって走るのです。

聞いたら、「だって三塁の方が近いから」と。

確かに右バッターだと少し三塁の方が近いですね(^▽^;)

最後に「さみしがり屋」というのは、

とにかく仕事でもプライベートでも京都に来られた時は、

いつも突然電話があり、

「夜空いてる?食事に行こう」

と、しょっちゅう食事に連れて行って頂きました。

京都祇園の超高級寿司屋 呑太呂にも健さんに連れて行って頂きました。

また、映画は1本撮影するのに40日~2ヶ月くらいかかるのですが、

共演者の方の出演分が終了してどんどんクランクアップして行かれる時の

何ともいえないとても寂しそうな顔が今でも忘れられません。

健さんは無口なイメージだと思いますが、身近な人の前では結構お話もされるのです。

そんな健さんのファンは芸能界でも多く、

北大路欣也さん、渡哲也さん、泉ピン子さん、中井貴一さん、小林稔侍さん、五木ひろしさん・ガッツ石松さんなど、ギャラはいらないから共演したい!とおっしゃる方も多く、

プロデューサーとしては健さんが主演だととてもキャスティングがしやすく有り難かったですf^_^;

ガッツ石松さんは、お子さんの名前を尊敬する高倉健さんと菅原文太さんから取って、健太と名付けられたほど。

芸能界の内外からファンの多い高倉健さんは永遠のスターですね!

↓の写真は、高倉健さんに私の息子を紹介した際の写真です。


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