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元東映プロデューサー田中憲吾の芸能界回顧録ブログ

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プロデューサー時代の俳優女優さんとの交流記録や

時代劇・ドラマの制作秘話など芸能界の裏話エピソードをつづったブログ

萬屋錦之介さん


今日は、萬屋錦之介さんとの思い出について語りたいと思います。 私の仕事人生は、この方のお話なくしては語れません。 なぜなら、私がプロデューサーに抜擢されたのは、萬屋さんの”鶴の一声”があったからなのですから・・・ 若い方はあまりご存知ないかもしれませんが、萬屋錦之介さんといえば昭和の大スターです。 出演映画は100本以上、大ヒット作も数え切れません。 私が初めて萬屋さんとお会いしたのは映画「 柳生一族の陰謀(1978年)」でした。 制作費8億円ほど、興行収入は30億円以上という大ヒット映画です。


当時の私は宣伝担当。萬屋さんは雲の上の大スターでした。 萬屋さんはそんな若造の私にも目を留めてくださり、 「うちで焼き肉パーティをやるから、あのボンも呼んでやってくれ」 と言ってくださったのです。 お宅にお邪魔すると、当時の奥様 有馬稲子さんのお隣に座らせて頂き、 「お前は陰ひなた無くよく働いてるな」と有難い言葉を頂きました。 その後、私を気に入ってくださった萬屋さんが当時の東映の高岩淡社長に 「憲吾をプロデューサーにしてやってくれ。俺が責任を持つから」と言ってくださったことで、現在の私があるのです。 そうして私の初プロデュース作品となったのが 「日本犯科帳 隠密奉行・久留米編(久留米篇)河童が怒る筑後川(1982年)」 という時代劇2時間スペシャルです。 主演はもちろん萬屋錦之介さんです。 萬屋さんは私の人生に多大な影響を与えて下さった大恩人なのです。 萬屋さんと言えば、情にもろく、早寝早起きということが思い出されます。 お宅に泊めて頂いた時、21時になると 「あとは女房にまかせた!相手してやってくれ」 と当時の奥様 淡路恵子さんにおっしゃって、床に就かれました。 一方の淡路さんは夜型。 みんなでディスコに行くことになり、戻って就寝したのは午前2時。 すると朝の5時に萬屋さんが部屋に来て、 「憲吾いつまで寝てるんだ!?」と。笑 今さっき寝たところですわ・・・f^_^; 萬屋さんとの記憶でもう一つ印象深いエピソードは、私の息子がアルバイトをしていた祇園のお店に一緒に行ったときのことです。 萬屋さんが、私の息子を見て突然ボロボロと泣き出されました。 そして息子に「親父を大事にするんだぞ」と。 突然のことでびっくりしてしまいましたが、後から事情を知ると、 交通事故で亡くされたご子息と同年代である息子を重ねていらっしゃったとのことでした。 萬屋さんが亡くなられて15年以上経ちますが、本当に私にとっても芸能界にとってもかけがいのない大スターです。 そしてなんと!偶然なのですが、今日3月10日は萬屋錦之介さんの命日でした。


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